日記: 7月29日(2014年)

 Twitterで「全国のワタナベさん。どうか漢字は「渡辺」に統一してもらえませんかね…」というようなことを言ったんだけども、これに関するTwitterでは述べきれない持論を述べたい。

 なお、最初に全国のワタナベさんの気分をできるだけ害さないよう、あらかじめ述べておくんだけども、私は仕事で人名を慎重に扱うべき場面が少なからずあって、私の職場のPCには、たとえば「渡辺」の「辺」の印字用の異体字が65種類インストールされている。これは人名にはやはり重大な愛着というものがあって、そこを尊重すべきだと理解しているからだ。

 そこを分かっている上で、でもちょっとドライな妄想話を展開したいと思う。

 そもそもなぜ「辺」の異体字は多くあるのか。

 これは単純に、「国が統一され、統一的な教育が施される以前は、全国各地でいろいろな文字にいろいろな字形があった」というだけのことが発端に相違ない。歴史的に見れば、字形が多いのは「辺」だけに限った話ではなく、どの文字も多かれ少なかれ多様性を持って変化してきたはずなのだ。

 でも、それらの文字の多くは、日本が1つにまとまるにつれて自然に集約されていったり、教育や制度でトップダウンで潰されてきた。そんななかで、いくつかの文字だけが、例外的に複数の字形を現在進行形で併用することを許されていて、その最有力が「辺」である、というだけの話だろうかと思われる。異体字が多いことは決して「当然」ではないのだ。

 ではなぜ「辺」など一部の異体字だけが、こんなにも数多く生き残っているのだろうか。これはおそらく元の文字が複雑で多様性がありすぎたことと、人名として使用している人口が多いこと(渡辺姓だけでも日本で3番目かなんか)が影響しているのだと思う。間違え易いのに利用者が多かった、と言い換えてもいい。

 簡単に言えば「文句を言う人が多いから抹殺できなかった」ということだ。全く不公平な話ではあるけど、そんな気がしてならない。ハシゴダカやタツサキの問題も、結局利用者が多く、影響する人が多いから残っている、という性格のものだろうと思っている。

 つまり逆の視点でみれば、少なくない数の「潰されてきた字形を持つ漢字」によって成り立っていた名前は、「先祖から受け継いできた歴史ある字形」を、ある段階で捨てさせられて、今に至っていると考えるのが自然だ。そんな立場からすれば「辺」のような、数の暴力を背景にした特例の存在は、どんなに理屈を捏ねても承服しがたいようにすら思えてくる。

 ・・・ともあれ、だから強制的に変えろ、とか言いたいわけじゃないよ!。元々は単なる冗談としてのツイートからね! ただ仕事をしながら65種類の中から正しい変換候補を探すという面倒くさいことをしていると、ふと上記のような妄想の理屈と、愛着を尊重する気持ちとで、アンビバレントな感じになったりもするわけよ! あしからず!、

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