カテゴリー別アーカイブ: 10周年記念特集

10th Aniv.: Ever Quest

 10周年記念企画第5弾は、Ever Questだ。最初のリストアップは、順番を間違えていた。時系列に沿っていこう。

 ・・・あれ? CFSが先か? まあいいや。

 こいつについて、私においては正直言って、そうやすやすと統括して語る術を持たない。ありとあらゆるゲームの中で、良くも悪くも、私の人生に最も影響を与えたゲームであり、多くの出会いや経験を与えてくれたゲームだからだ。語りだせばきりがないし、私の中で占めるスケールが大きすぎて、何を語っても、何か違うような気がしてしまうに違いない。

 なので、ドライに概略だけに触れて済まそうかと思う。

 Ever Quest(EQ)は、多くの人がご存知のように、「(事実上)1人称視点のMMORPGの祖」だ。発売は1999年3月16日。私がプレイを始めたのは、同19日だ。Ultima Onlineの徹を踏まず、EQに関していえば、極めて迅速にクライアントを入手することができた。経験は大事だ。

 EQには、UOで個人的に失望していた「他人との協力の必要性」や「キャラクターの特徴づけ」と言った要素が含まれていることや、またMeridian 59をやっていた経験から、1人称視点のMMORPGに対する思い入れもあったため、かなり早期から期待をして熱を上げ、発売前から情報サイトなどを立ち上げ、熱心に発売日を待っていた。なぜかそれが多くの人の目に触れるようになり、その後の私のオンラインゲーム人生に大きな影響を与えることになるのだけど、まぁそれは別の話である。

 ちなみに多くの人が私に対して抱いている誤解の1つに、「Nezはβテスターだった」というのがあった。当時からサイトやBBSで、そうではないことは言っていたんだけど、発売前からサイトを運営していたせいか、はたまた発売後の成長スピードが速かったせいか、頻繁にβテスターであるというような誤解を受けていた。別にだから損をしたとかではないけどね。とりあえず、ここで改めて否定しておこう。

 さて、発売後の私のEQ活動は、概ねNorrath Walkerの日記どおりである。かなりの廃人っぷりだけど、そこはつっこみますまい。

 しかし、EQプレイヤーとしてのイメージが強い(?)私なんだけど、実はEQを熱心にプレイしていたのは、1999年3月~9月くらいだけなんだよね。たった・・・とはいえないけど、それでもたった半年。その後もダラダラと2ndを育てたりはしていたものの、Lv50で目標を見失ったというのもあるし、人間関係のゴタゴタに倦んだのもあって、2000年頭あたりにはもう完全に、AoKなど他のゲームがメインのようなゲーム活動になっていたように思う。

 そして決定的にEQを引退したのは、最初のエクスパンション、Ruins of Kunarkの発売直後だ。ただでさえLv50超の展開についていけなくなっていたところで、レベルキャップの上昇、及び、更なるパワーゲーム化に、まるっきりついていけなくなってしまったのだ。というか、正直なところ、かったるくなってしまった。成長曲線がなだらかになるとダメなんだよなー。

 というわけで、私のEQ歴は、2000年前半には幕を閉じた。短いわりに、私に与えた影響は果てしなく大きいんだけど、とにかくも、プレイ期間はそれほど長くはなかったのであった。

 ・・・と思ったら、なぜか2003年にもなって日本語版(EQJE)が発売されて、実はみんなは知らないだろうけど(ええ、知らないでしょう)、私はEQJEもプレイしていたのでした。そして、EQJEでは英語版で手が届かなかった、Lv60くらいの世界を送ればせながら見ることができたりもしたんだけど・・・ま、それもまた別の話だ。

 とにかく、英語版EQを短期間にプレイし倒したため、少しMMORPGが食傷気味になった私。この後はしばらく、WebチャットやIRCのチャット仲間たちと、TCP/IP接続による対戦ゲームなどを、ちまちまとやりまくる日々を送ることになったのでした。

 それによって、また新しいジャンルが開拓できたりもしたんだけど、それはまた次の話だ。

10th Aniv.: Ultima Online

 10周年記念企画第4弾は、皆さんご存知Ultima Onlineだ。

 Ultima Online(以下UO)の発売は、1997年9月末。日本代理店版の発売は約1ヶ月後の10月中旬だった。ある意味この時期が、日本における「MMORPG到達記念日」であったと認識してかまわないと思う。

 当時の日本人のUOプレイヤー候補生たちにとって最大の命題は、「いかにして発売日直後にパッケージを入手するか」だった。当時はまだオンラインゲームの個人輸入全盛期(EQ、DAoCあたりが個人輸入のピークで、その後は日本の業者やDL販売が主となっていったように思う)を迎えておらず、いわゆる「定番海外通販サイト」というものが確立していない時期だった。そのため、日本人プレイヤーの多くは、コミュニティなどで話題に挙がった、さまざまな海外の通販サイトのなかから、勘だけを頼りにショップを選択し、あとはひたすら自分の選択したショップが、ちゃんと発売日直後に発送してくれる「アタリ」であることを願いながら、UOの発売日をいまやおそしと待ち続けた。

 しかし願い空しく、その結果は「『公式サイトでの通販』を除いてほぼ全滅」という凄惨な有様になってしまった。初期ロットが少なかったのか、発売直後のUOはMMORPG史に残るであろう品薄状だったのだ。伝え聞いたところによれば、アメリカ本国での供給も追いついておらず、ましてや日本では、アメリカでの発売日に近い日に手に入れることができたのは、極々限られた小数の人たちだけとなってしまった。

 かくいう私も見事にこの「入手戦争」に敗退。m59から一緒にUOに移住してきた友人が、公式サイト予約でまんまとUOを入手しているのを尻目に、私は結局日本代理店版の発売まで、悶々と過ごすことになった。

 そして忘れもしない1997年10月17日、ついにUO日本代理店版が発売された。私はこの日、人生で最初で最後の「開店前に店に並ぶ」という愚挙を、東京都秋葉原はTWO-TOPにて敢行し、ついにUOを手に入れたのだった。今でもあの朝もやの秋葉原に集結した、日本オンラインゲーム界の未来を担う、愛すべきバカたちの姿は忘れられない。えぇ、いろいろな意味で。

 で、βテスト最終日以来となるUOをプレイしたわけなんだけど・・・。

 ちょっと私の求めていたものとは違ったという結果に終わった。どうしてもm59と比較してしまう私の目からすると、UOはあまりにもコミュニケーション性が乏しく、戦闘を軸にしたときのキャラクター間バランス、個性付けという概念がないに等しいものだったのだ。ありていにいえば、少々失望した。

 まず圧倒的に使いにくいチャットシステム。これは、現在のUOがどうなってるのかは知らないけど、私のプレイしたクラシックUOについていえば、ついに私が合格点を出すことはなかった部分だ。IRCを使用していれば済む問題ではあったけど、IRCがあるからUOの機能が低くてもUOの評価が下がらない、というものではない。はっきりと、「UOはコミュニケーションというMMORPGにおける重大要素を欠いたゲームだった」と言いきれる。これを補ったのは、UOの力ではなく、我々プレイヤーの適応力の賜物なのだ。

 そしてキャラクター。最終的に戦闘員を志向したほぼ全員が、同じような魔法戦士となるデザインには辟易するほかなかった。そしてこの、全員が同一タイプ化することを強いられるデザインに対する失望感、没個性への反発こそが、クラスシステムを採用したEQに飛びつき、絶大なる期待を寄せることになる、最大の原因となるのだけど、まぁ、それは次の話だ。

 しかしそれでも、UOの為した功績はあまりにも大きい。

 そのなかでも最大の功績はやはり、MMORPGというジャンルをある程度一般化した、ということに尽きるだろう。マイナー、マニアックの謗りは免れないとしても、オンラインゲーム界においてMMORPGというジャンルを確立し一大勢力化したのは、Meridian 59でもRealm OnlineでもなくUltima Onlineに他ならなかったのだ。

 また、いわゆる「生活」面におけるUOの多彩さは、いまだもって他の追随を許さないものがあるし、そもそも「生活」というプレイスタイルそのものを確立しただけでも、UOは歴史に名を残す資格がある。ましてや今日におけるまで、UOに匹敵するほど自由な「生活」を提供してくれたMMORPGは、ほとんどないといっていいのだから(私のプレイした中ではSWGがそれに近かったくらいかな)、そのゲームとしてのオリジナリティには驚かざるを得ない。

 そんなわけで、戦闘に失望し、生活という新しいMMORPGの遊び方を得た私は、全く戦闘関連スキルを上げずに、羊を大量に飼いならしては、絶海の孤島を羊まみれにしてやったり、Recallもつかえないままにダンジョンに乗り込む友人のあとをつけて惨殺されたり、友人宅でスキル上げに殴り合いをしたり、友人と船に乗りながらサッカー日本代表を応援したりといった、まったりプレイを楽しんだ。

 んが、結局私にはそのプレイスタイルではあまりに刺激が足りなかったし、かといってUOでPvPをする気には到底なれなかったということもあって、戦闘、生産、利殖、消費をあらかた体験すると、割とすぐにUOへの興味は失ってしまった。

 ので、その後はMMORPGに関していえば、また専らMeridian 59をプレイして、きたるEver Questの発売を待つことになるのであった。

10th Aniv.: Meridian 59

 10周年記念特集第3弾は、Meridian 59だ。

 (いいたいことが多すぎて、全然まとまらなかったけど、もうこれでいいや。ちょっと読みにくくてすいませんと、ヘタレな言い訳をしておく)

 Meridian 59(以下m59)は、事実上、「世界初のインターネットによるMMORPG」である。日本での知名度は、ほとんど皆無に等しいこのゲームだけど、世界初のMMORPGという偉業はその知名度の高低によってなんら影響を受けるものではない。Ultima OnlineやEver Questといった、今日「MMORPGの祖」といわれている名作たちに、多大なる影響を及ぼした歴史的タイトルなのである。

 ■ 発売時期

 m59の発売は1996年の12月。Diabloとほぼ同時期だ。私がプレイをし始めたのは、確か1997年の7月くらいだったと思う。開始した直後あたりに、2つ目のエクスパンションが導入された記憶がある。当時は、「海外の公式サイトを見て、最新ニュースを追う」というようなことをほとんどしていなかったので、「起動時のクレジットが変わったなぁ」程度にしか、エクスパンションの追加を把握してはいなかったけどね。

 ちなみに同時期に現在も稼動中のMMORPG、The Realm Onlineもスタートしていて、βの開始時期はRealm Onlineのほうが早く、正式スタートはMeridian 59のほうが早いという、「世界初」の名誉をかけた熱いデッドヒートが繰り広げられていたようだ。たぶん。

 ■ 概略

 m59は今でいえば、「EQ系」の3D-MMORPGだ。ただし3Dといっても、グラフィックはすべて平面絵で描かれていて、ポリゴン、とか、テクスチャ、とかを想像してはいけない。2Dで描かれた擬似3Dという方が正しいかもしれないというような代物だ。そしてその2Dの絵も、これでもかとばかりに洋ゲーテイストをふんだんに盛り込んだ、一般的日本人の美的感覚からすれば、「醜い」という部類のものだった。たぶん、見た目だけで99.9%の日本人は拒否反応を示しただろう。

 しかし、ひどいのはグラフィックだけで、ゲームシステムとしては、後世のMMORPGの見本となるにふさわしい、優れたプレイヤー間バランスを持ったゲームだった。

 ■ 基本システム

 キャラクターの構成要素は、キャラメイク時以外には変わることのないステータス値と、キャラ作成後に成長して行くヒットポイント、マジックポイント、そしてスキルから成り立っている。この中で特に優秀なのは、スキルを軸とした成長システムだ。

 成長のシステムは、いわゆる普通のスキルシステムだ。戦闘にまつわる6種(のち7種)のスクールのどれか1つ、あるいは複数に入門し、そのスクールのレベルごとに教わることのできるスキルを覚え、そのスキル値を上げていくというシステム。

 たとえば、Weaponscraftのスクールに入門すると、Lv1ではパンチと斬りを教わることができる。それぞれのスキルは、使うことで、つまり、パンチなら素手で殴ることで、斬りなら剣で殴ることで、徐々にスキル値が上昇していく。そして、パンチと斬りのスキル値の合計が一定値を超えると、Lv2のスキルを教わることができるようになる。このように修行とスキルの習得を繰り返して、キャラを育てていくのが基本的なキャラクター育成法だ。

 使ってスキルを伸ばす。というのは、まぁありがちなゲームシステムだといえる。ここまでを読んだだけだと、普通に考えると

 「それじゃ最終的には、みんなすべてのスクールをすべて成長させて、みんな同じキャラになるんじゃない?」

 と思うだろう。実際同じようなスキルシステムを採用したUOは、それに似た状況になった。

 しかしm59が優秀なのは、この点なのだ。

 前述したように、m59にはスキル値とは別に、キャラ作成の段階で設定するステータス値がある。ステータス値は、各種の行動の基礎となる値である。キャラ作成時に与えられたステータスポイントを、いくつかあるステータスのどれにどれだけ割り振るかによって、最大HPが変わったり、武器の威力が変わったり、魔法の威力が変わったりするわけだ。この各ステータス値のなかでも、m59に特徴的なのは、このステータスの種類の中に、「どれだけ多くのスキルを学べるか」を左右するステータスがあるということだ(INTだったと思う)。

 このステータスの存在により、実際の戦闘にかかわる数値のどれかを下げないと、スキルを多くは学べないという仕組みが成り立つ。HPが多く、攻撃力が高く、守備力も高いように設定すると、多くのスキルを学べない、という風になるわけである。つまり、器用貧乏か1点集中か、という選択を強いられることになるのだ。

 こうしたシステムのおかげで、m59のキャラクター育成は、

 ・どのくらい器用貧乏に、どのくらい専門的にするか
 ・そもそもどのスクールをとるか
 ・どのタイミングで別のスクールを学ぶか

 といったことを考えねばならず、キャラ作成のパターンが、それこそプレイヤーごとに存在し、みながみな異なる個性を持つキャラクターを操っていた。WC6にShal’ille1のみの肉弾戦士もいれば、WC6/Faren5の魔法戦士、Faren5/Kraanan4/Qor5の魔法使いなど、さまざまだった。

 (註:Shal’illeは回復魔法、Farenは攻撃魔法、Krannanは攻撃補助魔法、Qorは呪いの魔法のスクールの名称)

 もちろんこの個性化の基盤には、当時は現在のようにMMORPGについての情報が乏しかったために、いわゆる「定番」が形成されるコミュニティがなかった、あるいはあったけど目にしない人が多かった、ということもあるだろう。

 また、ゲーム世界の規模が小さかったため、ということもある。m59の一つのサーバープレイ人数は、せいぜい100人強といったところで、日本のテレホーダイタイムなどはサーバーに10人ということもざらだった。非常にマイナーなゲームだったのだ。そのぶん、プレイヤー一人一人の比重が重く、個性を感じやすかったということは大きい。

 それでも理由がなんであれ、当時のm59のプレイヤー・キャラクターたちは確かに個性的で、そのゲーム世界における自分の存在を、その他大勢の一人、ではなく、ただ一つの存在として、リアルに感じることができた。これは素直に評価したいし、私の中でのMMORPG観を形成する重要な原体験となっているのである。

 ■ PvPシステム

 m59のもう一つの特徴は、フルPvP仕様だったという点だ。

 m59のPvPよりも熱いPvP仕様を持ったゲームを、私は知らない。別にPvPの競技性が高かったわけではない。当時の回線技術のせいか、非常にラグを感じるPvPしか行えず、そのラグを読んだ攻撃を強いられるなど、純粋に競技性という点からすると、むしろ評点は低い。しかし、その欠点を補って余りある要素があった。コミュニティを利用したPK抑止システムと、それをものともせずにPK行為を繰り返すPKer達の熱い戦い、という構図がそれだ。

 m59でのPKは、大体以下のような流れになる。

 1)PKerが初心者を瞬殺する
 2)サーバー全域に殺人事件発生の報が流れる
 3)被害者に「どこで殺された?」というtellが殺到する
 4)PKが安全地帯まで逃げるか、ハンターがPK行く手を封鎖して仕留めるかの戦いが始まる

 1)について。基本的にはm59でも、PKerの獲物は初心者だ。しかしこのm59における、初心者のころのPKerの恐怖というのは、筆舌に尽くしがたいものがある。なにせ3Dなので、背後に駆け寄ってくるPKerがほとんど見えないのだ。気がつくのは、画面がPKerの魔法でフラッシュしてからであり、そうなるともうほとんど死亡確定だ。この、画面フラッシュと、振り向いたら目の前にPKerの姿があるという光景は、本当に恐ろしい。その瞬間、瞬く間に心拍数が上がり、次の瞬間には冥府に飛ばされているという仕組みだ。そして冥府で落ち着いた頃に、やっと「ああ、殺されたなぁ」と呆然とするのである。思い出すだに怖い。

 2)について。m59では、殺人が行われると「悪名高い殺人鬼のAが、Bを殺害した」というメッセージがブロードキャストで流れるようになっている。全世界放送。これはすさまじい。全世界で悪名を得る覚悟なくしては、m59でPKerをすることはできないのだ。

 3)について。2)のメッセージでは、殺害現場が告知されない。PKerを退治することを生業としている連中にとって、ほしい情報は「犯人」と「その居場所」なので、後者を得るために必ず被害者のもとにtellが殺到するのだ。

 4)について。読んで字のごとく。

 上記を読んでわかるように、m59ではPKerのリスクが大きい。殺人を犯せば必ずそれが露見してしまうからだ。

 そして、サーバーにはハンターと呼ばれる、PK退治好きが何人もいて、PKをすれば彼らに狙われることも、ハンター全員を返り討ちになんてことが不可能であることも、確実にわかっている。つまり、はじめから割に合わない悪行なのだ。現実社会と同じである。リスクを大きくすることでPKを抑止するシステムが、システムサイドとプレイヤーサイドの双方によって為されているのである。

 しかも現実社会と違って、基本的には「PKerは許されない」。一度PKerとなったものは、よほどの反省の意を示さない限り、「キャラクターを削除するまで」ハンターに狙われるのだ(なお、これは比較的治安がよく、ハンターの勢力が強かった104サーバーの話であって、殺伐としたサーバーでは殺し合いが日常茶飯事というところもあったそうだけど)。

 そして現実社会ほどではないとはいえ、m59では死のリスクが大きい、ということもPKerのリスクに拍車をかけている。m59では、死ぬとすべての荷物を失い、HPとすべてのスキルが1下がる仕様になっている。スキルが20種類あれば、トータルでスキルが20下がるのだ。m59のスキルの上がりにくさを説明していないから伝わりにくいけど、これはすさまじいペナルティといわざるを得ない。とりあえず「スキルが1も上がらない日のほうが後半は多い」というプレイ体験だけは言っておこう。それだけの死のリスクがあるのだ。

 つまり、PKerは以上のことを把握した上で、それでも覚悟をして、あえて、あえてダークヒーローになるのだ。実際ほとんどのPKerは、その短い活動の全盛期を終えると、パタッと目にしなくなっていった。活動不能に追いやられるのだ。

 だからm59のPKerは心底恐ろしく、憎く、せこく、悪どく、そして果てしなく格好よかった。

 だから、そんなPKerの存在する中で生活をしているという緊張感と、いつかハンターになって初心者に「どこだ?」と聞く日を夢見て修行をすることは、とても楽しかったのである。

 予断ながら、このようなPKer像を見続けてきたせいで、この後にプレイしたUOのPKerの格好悪さときたら、目を覆うばかりだった。存在しないリスク、容易な逃走、容易な育成。そんなシステム下で行われるPK行為には、なんの格好よさも感じられなかった。これが私のUOに対する不信感の一因になって、心底UO好き、ということにはついにならなかったわけなんだけど、その話については、また次回の話に回そう。

 ■ まとまらないまとめ

 なんだかだらだらとm59のシステムの断片を書きなぐった形になってしまったけど、そんなわけで私はDiablo、XvsTときたオンラインゲーム遍歴にm59を加え、記念すべき初のMMORPG体験をしたのでありました。

 m59は妙にウマの合ったゲームで、途中で1500円の月額料金が、3000円くらいに高騰するというふざけた展開があったにもかかわらず、かなり長期に渡ってプレイをした。XvsTのプレイ中からはじめたm59は、UOリリース後も細々と遊び続け、結局EQ発売直前の1999年初頭まで遊び続けることになったのである。

 実はこの1年半のプレイ期間というのは、MMORPGを転々としてきた私の経験のなかでは、1タイトルあたりの最長に近いプレイ期間だったりする。今書いてて、私もはじめて気がついたんだけど、うーん、m59恐るべし。

10th Aniv.: X-wing vs TIE Fighter

 10周年記念特集(略すのはヤメだ!)第二弾は、X-wing vs TIE Fighter(以下XvsT)だ。

 Diabloほどのメジャータイトルではないと思うので、大雑把にゲームの内容を説明するところから入ろう。

 XvsTの発売は1997年の4月末。スペースコンバットシミュレーターなどと分類されるジャンルのゲームで、映画スターウォーズに登場する戦闘機を操って、敵軍の戦闘機や艦船を撃破するのが目的のゲームだ。フライトシミュレーターの宇宙版だと思ってもらえれば、そう間違ってはいないと思う。

 XvsTは、その前作に位置づけられる、「X-wing(ゲームタイトル名)」や「TIE Fighter(同)」の、集大成的作品として登場したゲームで、前2作では反乱同盟軍ないしは帝国軍のどちらの機体しか操作できなかった(たぶん。未プレイ)ものが、今作では両方を使うことができるという、お得なゲームだった。ガロウとリュウコにおけるKoFとでもいう感じである。

 このゲームの発売当時は、ちょうどDiabloが一段落していて、でも「オンラインゲーム」というものの魅力には、すっかり魅せられてしまっていた頃で、次なるオンラインゲームを模索している時期だった。そんな時、Diabloを主に遊んでいたあるコミュニティの人たちが、XvsTに手を出しているのを見て、私も真似して参戦してみた、というわけである。

 XvsTにはTCP/IPによるインターネット対戦機能はあったものの、Diabloのような優秀なロビー機能を備えてはいなかった。一応マイクロソフトの運営する、Internet Gaming ZoneでXvsTも扱われてはいたけど、Battle Netの盛り上がりに比べれば、存在しないに等しい程度の利用率だったように思われる。

 しかし私は幸運なことに、上記のDiabloのコミュニティから分派した、オンラインゲームコミュニティとでもいうべき集団に参加することができ、毎夜対戦相手には事欠かないほどの環境を得ることができた。日本では数少ない、「XvsTのオンライン対戦機能を満喫できた人」だったと思う。

 XvsTとそのコミュニティは、今にして思うと熱を上げすぎだろってくらいに活発に活動を続け、大会を開いたり、その大会の参加者の1人が、大会内容を題材にした小説を書いたりするくらいにまで盛り上がっていた。その頃は非常に楽しくて、毎日テレホーダイタイムが来るのが待ち遠しくてしょうがなかった。

 また私も自分のサイト(このサイトだ)で、XvsTの戦術講座なんかを公開してみたりして、その側面援護を担ったような担わなかったような。まぁ、そんな感じで楽しい思い出がいっぱいなゲームなのである。

 さすがに同じメンツと同じゲームを対戦し続けては、そのうち飽きが来るというものではあったけど、それでも夏くらいまではXvsTをやっていたんだったかな? その辺の記憶はあいまいだけど、私のゲーム史のなかでは欠くことのできないゲームだ。世間的には非常にマイナーなんだろうけどね。

 さて、XvsTをオンラインゲームとしてみたときの最大の特徴は、「協力ミッションで遊べる」という点に尽きる。

 RPGではなく、アクションゲームで「協力ミッション」を行うことができるオンラインゲームは、実は非常に少ない。XvsT当時のオンラインゲーム環境下では、ホストマシンの処理負担や、データの送信量という点からしても、大量のコンピュータ操作オブジェクトを登場させるのが困難だった、というのはわからなくもない。でも、その後飛躍的に技術が向上し、PCの性能や回線速度が上がっていっても、「協力ミッション」を行うことのできるアクションゲームというのは、ほとんど登場しなかった。理由はわからない。友人と困難なステージのクリアを目指すというのは、非常に楽しいように思うんだけど、需要がないのだろうか。

 そんななか、XvsTは8人までが参加することのできる、協力ミッションを備えていた。さすがに8人同時となると、回線、マシンともに良好な面子がそろう必要があったけど、それでも一応遊ぶことができるレベルで実装されていたのだ。これがどれほどすごいことだったかに気が付いたのは、その後いくら待っても「次なる協力ミッションゲーム」が登場しなかった数年後のことである。

 8機のX-wingが編隊を組んで、巨大なインペリアル級スターデストロイヤーと、無数の直掩機に挑む。今思い出しても燃えるゲームだった。

 しかもXvsTは、この協力ミッションを「キャンペーン(連続ミッション)」で行うことすらできた。仲間と少しづつ難しくなっていくミッションに、日々挑んでいくことができたのである。こうなればもう、気分は宇宙の戦士にならざるを得ない。

 そんなわけで、対戦ゲーム、協力ゲーム、アクションゲームという、3要素をオンラインでかなえてくれたXvsTは、私の中でゆるぎない地位を得るに至ったのであった。蛇足ながら私は、これを超えるゲームが出るとすれば、個人的には「協力ミッションキャンペーンつきメックウォーリア」しかないな、と思っていたんだけど、結局そんなものは出なかったなぁ。残念だ。

10th Aniv.: Diablo

 10周年記念特集。略してJKTの第1弾はDiabloだ。

 いわずと知れたオンラインRPGの祖。1996年12月の発売で、私が初プレイをしたのは、翌年4月だ。

 当時の私は、PCを人生で始めて入手し、同時にインターネット界に突入したばかりだった。まだインターネットはマイナーな存在で情報が乏しく、右も左もわからなかった。そこでとりあえず情報を雑誌に求め、いくつかのPC雑誌、PCゲーム雑誌を購入した。後にも先にも、PC雑誌を購入したのはこのときだけである。そのうちの1つにテックウィン誌があり、その付録CD-ROMについていた「Diablo体験版」が、私のオンラインゲーム史上の記念すべき第一歩ということになる。

 体験版の解凍前ファイルサイズはたしか50MB弱。今にして思えば、恐ろしく小さいサイズだったけど、当時の回線環境からすると、ダウンロードするには果てしなく大きなファイルサイズだと感じられたのが思い出深い。私は付録のCD-ROMからのスタートだったので、このファイルをダウンロードすることはなかったけど、「一晩かけてダウンロードしたよ」とかいう人を見ては、すごいなー、と感心したものだった。

 この体験版で、その後長い付き合いになる、初めてのネットフレンドを作ることにもなった。その縁から、いろいろな友好関係を広げていくことになったことを思えば、後の人生にかなりの影響を与えたゲームだったといっていい。ちなみにその友人と最初に遊んだのは、「TECH-WIN」という名前の部屋だった。部屋名を見た瞬間、「私と同じだ!」と思って、思わず飛び込んだのが懐かしく思い出される。余談ながらそんな彼との交流も、この3、4年ほど断たれている。彼は今頃なにをしているのやら。ここみてるかー?

 さてこの体験版を遊んでみて、多大な手ごたえを感じた私は、すぐさま製品版を購入した。当時日本ではDiabloの製品版パッケージの入手が極めて困難だったんだけど、私は運よく(?)簡単に手に入れることができた。注文と入荷のタイミングがよかったのか、通販であっさり届いたのだ。届いたあとも、掲示板などでは「手に入らない!」という書き込みが続いていたから、やっぱり運がよかったんだろう。

 同時にNTTのサービス「テレホーダイ」にも加入した。このサービスが、財布を守り、生活リズムを破壊したわけだけども、10時になるとわらわらと集まってくるという文化は、今になってみればそれはそれで何か面白いものがあったように思われる。まぁ、もうあの環境には戻りたくはないけれども。

 そして製品版で猿プレイ。体験版での友人とも再会を果たし、オンラインRPGの洗礼PKerに遭遇したりもしながら(最近のMMORPGプレイヤーの中には、PKer経験のない人も多いのかな?)、やがていわゆる「Hell/Hell」をクリアするに至った。

 しかし、そこでプツンと糸が切れてしまった。最高難度ステージをクリアしてしまい、目標を失ったのだ。急速にDiablo熱が冷めてしまった私は、次なるオンラインゲームを求めてさまようことになるのだけど、それはまた次の話で話そうかと思う。

 さて、結局Diabloにはまっていたのは、長かったようで僅か1ヶ月。ストーリー型、面クリア型のオンラインゲームは長持ちしない、というのは今も昔も変わらない私のパターンだといえそうだ。目的があると、その目的達成に向けた行動だけが面白くて、「達成後のレベル上げ」とかをする気は起きないのだ。Wizardryなどはその典型で、Lv13でワードナを倒したら飽きたものである。

 ゲームとしてのDiabloを振り返ると、オンラインゲームというよりは、オンラインもできるゲーム、といったほうが適当だったような気がする。ゲーム内容を見るに、あくまでもメインはシングルで、マルチはおまけ、という位置づけに思えた。

 ただ、あの時代にBattle Netというオンラインプレイ用のロビーを、しかも無料で設けたことは、特筆に価する壮挙と言っていい。しかも、そのユーザビリティーは現在の水準で見ても、シンプルかつ必要十分な機能を備えた、非常に高品質なもので、それどころかTCP/IP接続ゲーム全盛時代を通じて、Battle Netを越えるロビーサービスは、ついに登場しなかったように思われる。

 この壮挙による影響は大きく、前時代からのLANゲームで使用されていたシェアウェアのKaliなどは、「ロビーサービスを無料で提供」というDiabloの例の前に、メジャー化への道を断たれざるを得なかったし(用途的にKaliは元々メジャー化を志向してはいなかったかもしれないけど)、後のオンライン対応ゲームでも、ロビーサービスの有無や質が、その評価を大きく左右することになった。オンラインゲームの黎明期に、あとに続くゲームの手本となるような前例を作り上げ、ゲームを評価する際に、そのゲームの一部としてのロビーシステムの質を問う風潮をつくったことは、オンラインゲーム界そのものによい影響を与えた、素晴らしい事跡だといっていい。

 そんなわけで私としては今ではDiabloについては、純粋なゲームとしてよりも、「オンラインゲームかくあるべし」というフォーマットを作り上げた功績をこそ、高く評価しているのであった(もちろん「Diablo系」というジャンルを作ったことも大変評価してはいるけど)。