日記: 6月20日(2017年)

 「もう来ないでください」ヤフオクで御朱印帳が転売、神社が怒りのツイート

 という話題があった。

 Twitterでも述べた通り、私の第一印象は「売れる商品を見つける才能がある人ってすごい」というものであって、特に憤慨する気持ちがないんだけど、この辺は私が宗教というものに、あまり敬意をもっていないせいだろうな。売られているものを、買って、さらに売った、という商取引にしか見えない。

 とはいえ、もちろんこれを不敬に思う人がいるのもわかる。わかるけど、神社がそういう立場で述べているのかどうかは、ちょっとわからない。大義名分としてはそうなんだろうとは思うけど、本心は果たしてそうなのだろうか。

 転売をして欲しくない理由はなんなんだろう。

 そこをほじくってみたい。
 
 なお、以下は基本的に神社と企業を同じような比重で見るという、シニカルな宗教観を持つ私の意見なので、敬虔な方にとっては甚だ不遜・不敬に見えるかもしれない。そういう方は、読まぬことをお勧めします。

 ケース1.

 よくある転売の弊害は、「買いたい人が正規に買えなくなる」だ。我々ゲーマーとしては、Switchがねえ! 3DSがねえ! というようなシーンでよく見るやつだ。

 これは転売を制限する理由としては実にまっとうだ。法律でダフ屋行為等が禁止されるのも、こういった理由だ。これが理由なら私も大賛成だ。

 でも、今回の場合これは理由ではなさそうだ。転売者の購入によって、正規購入者のパイが少なくなってはいないだろう。正規在庫は潤沢で、現地では滞りなく販売されているものと思われる。

 ケース2.

 そこで考えられるのは、当該神社のツイートにもあるように、「神社まで来て手渡しで買う以外ご利益を認めず」という効能が理由のものだ。スタンプラリーのルールというのに近い。まぁ、それはそうなんだろう。

 でも、考えてみよう。例えば自分に年老いた母ないし祖母がいるとする。彼女は病に伏せている。そして言う「死ぬ前にもう一度八坂さんの御朱印帳をもって参拝したいねぇ…」。参拝はもうかなわないだろう。しかし、せめて御朱印帳を見せたい。はるばる八坂神社までいき、御朱印帳を買う。そして、それを彼女に譲る。涙ながらの授受。ああ感動。

 …これはアウトだろうか?

 金銭の授受がないとはいえ、直接参拝していない第三者が御朱印帳の所有者となる、という点では転売と同じだ。

 しかし、これをアウトというほど、神社も血も涙もないとは思えない。参拝していないから本当はご利益はないけど、それで気が休まるのであれば持っていてくださいな、というような落としどころになるだろう。

 そう、それで気が休まるなら持っていてもいいのだ。直接参拝しなくてもいいのだ。きっと。

 ケース3.

 となると考えらえるのは、金の問題、または、心の問題だ。

 まず金の問題を考える。金銭の授受が発生しているかどうかを問題にするという立場だ。

 これは、ないでしょ。なにせ、神社側が最初に金銭を要求しているからね。自分たちが金銭を得ることはよくて、他人が得をするのはよくないというのは、狭量にすぎる。これが理由なのだとしたら、まったく支持できない。

 ケース4.

 となると心の問題だろうか。

 金儲けのために購入する、金儲けのために授受する、金儲けのために売却する、という汚れた(?)動機が問題であって、行為そのものではない、という立場。

 これは、納得はできる。そういう教義なのであれば嫌悪感を示されても仕方がない。ただ、これが理由の場合、逆に他人に文句はつけられないなぁ、とも思う。他人の動機は正確には推し量れないから、断罪するなら「決めつけ」で断罪せざるを得ない。そういうことは、しないほうがいい。疑わしきは罰せずが近代刑法のルールだ。

 転売者は誰が見ても限りなく100%に近い確率で金儲けしか考えていないだろうけど、それでも実は「御朱印によって八坂さんの偉大さを広めるのだ」とかいう純粋な心なのかもしれない。母や祖母に報いたい人と同じ高潔さなのかもしれない。

 その辺をどうしたって正確にはわかりえない以上、内心憤慨しつつも、そこは触れてはならない領域だとしたい。

 ケース5.

 はい、そうなるともう伝家の宝刀を抜くしかないね。

 宗教上の理由。

 これを言われたらもう反論できない。そうですか。でも、知らんがな。

 ということで。

 個人的な意見としては、本件に関して言うと、転売を制限する理由がないな、というものなのでした。

 私は「転売」という行為は、ケース1に該当する場合を除けば、買い手も売り手も幸せになる行為だと思っているので、制限するほうに不利益を感じてしまう。ケース1がニュースになるせいで、転売という言葉そのものに悪印象があるけど、売りたい人が売れ、買いたい人が買える、という限りにおいては、転売もまっとうな経済活動だ。ネットオークションによって、組織の流通の手が届かないところを、個人がフォローできるというのは、実にいい時代になったとさえ言える。よく知らないけど、もし仮に法が追い付いていないなら、法整備すべきだとも思う。

 そして同時に、売り手が売却後の商品にまで干渉することには、多大なる不健全さを感じる。巷間に、他人が得をすることを許さない、足を引っ張る風潮があることも、不健全で嫌いだ。

 神社が御朱印帳の転売という一見汚い行為に対し、ポーズとして憤慨するのは宗教的アピールとしていいと思うけどね。でも、本当にベストなのは「黙して語らず」だったと思うよ。

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