今日はハロウィン。
年に1回訪れるネタゆえに、以下の話に類似した話を、過去9年のWeb日記歴の中で書いたかもしれないけど、肝心の書き手である私に覚えがないので、書いてしまうことにする。もし似た話を見た覚えがある古参読者諸兄がおられましたら、静かに黙殺するように。
ハロウィンといえば、日本では謎の仮想パーティーだったり、商業的なシンボルだったりはするものの、本来の行事であるところの、「家庭訪問の上『お菓子かイタズラか』の選択を強いる恐喝・窃盗行為」を実際に行っている地域は少ないのではないかと思う。しかし、私の幼少期のハロウィンは、この「本来のハロウィン」によって彩られており、そのイメージが鮮烈に焼きついている。
その最大の理由は、当時住んでいた土地にある。私が幼少期を過ごした住居は、道路を挟んで向かい側が米軍居住区だったのだ。
居住区内の芝生で覆われた広大な土地の中には、贅沢な配置で幅広の道路と家が建てられていた。フェンスのこちらには、1坪たりとも無駄にしないように林立した日本の住宅群。かたやフェンスの向こう側には、アメリカのカントリードラマで見られるような、優雅なアメリカ建築。人口密度比は10:1でも効かなかっただろうと思われる。特に印象的だったのは、その空だ。米軍居住区内の住宅は、土地がいくらでもあったため、どの建物も高層化せず、そのため空が本当に広かった。鮮やかなコントラストで天地に広がる芝生と青空を、「わずか30センチ先の外国」に眺めながら、子供心に憧憬と嫉妬の念を感じたことを、今でも昨日のことのように思い出すことができる。
(ただし、数年前に久しぶりに訪れたとき、居住区内の人口密度は大幅に増加したらしく、土地当たりの戸数が増え、高層化されてもいた。ざまあみろというか、もったいないというか)
その米軍居住区内の子供たちと、我々周辺住民の子供たちとは、しばしばフェンスを挟んで投石合戦(普通に流血していた)を行うなど、いさかいが絶えなかった。だけど大人同士では交友を結ぶ例も多く、私の母も居住区内の家庭と仲良くなり、英会話を教わったりしていた(今でも年数回の文通のようなことを行っているようだ)。
その縁もあり、毎年ハロウィンになると、夜な夜な友達と米軍居住区に入り、その家々を訪問しては、意味もわからずに魔法の言葉「とりっくおあとりーと」を唱え、お菓子をもらう、ということを年中行事としていた。
米軍居住区内の家々は、ハロウィンやクリスマスの季節になると、隣家と競い合うようにして、電飾で家を飾りだす。そのため、これらの季節の夜に、フェンス越しに米軍居住区を覗くと、キラキラ輝いていてとても美しかった。家ごとに飾り付けにも個性があって、色とりどりの家から、シルバーしか使わない家、グラデーションにしている家などなど、さまざまな飾りを楽しむことができたのだ。
そんな夢の国とでもいうべきエレクトリカルパレード状態の居住区内を、ちびっ子ハロウィン隊はゆく。電飾がついているといっても、家から少し離れれば真っ暗だ。なまじ家と家の間隔が広いせいで、暗いところは本当に暗い。電飾の家と電飾の家の間を、点と点を線で結ぶようにして、恐る恐る、でも、だからこそ冒険気分で進んでいった。
ちびっ子隊はそれぞれが、前の日にみんなで集まって造った、ダンボール製のちゃちな仮装をしていた。だけど所詮は子供のやっつけ仕事のシロモノで、ゴミをつけているようにしか見えなかったのはご愛嬌だ。ところが、たまにすれ違った、居住区の本家ちびっ子隊は、市販品と思われる出来のいい魔女や骸骨の仮装をしていた。当時、日本ではハロウィンなんて知名度もほとんどなく、だからハロウィン用の子供仮装グッズなどというものも、簡単には手に入らなかった。だから出来のいい仮装を見て、ちょっぴりコンプレックスを感じたりもしたんだけど、それも今ではいい思い出だ。
闇夜の中、輝く家を目印に、ダンボールの仮装と魔法の言葉を武器にして、お菓子という宝を求めて歩き回った一夜の冒険。
今では当時のような冒険はできないけど、その思い出だけで、この時期少しやわらかい気分に浸ることが出来る。
日本での曲解されたハロウィンの盛り上がり方、商業主義的なアプローチに対しては、もうお決まりの我が国のお家芸なので、特にいうことはない。けどその盛り上がりのおかげで、年1回、このハロウィンの思い出を思い出すことができ、そういう意味ではこの不思議な盛り上がりも、私には案外重宝しているのかもしれないなぁ、なんて思ったりするのであった。
なお、舶来の菓子は、総じてまずかった。