作成者別アーカイブ: Nez/蝿

ヘルニア闘病記: 12.入院20日目/手術15日後

 同じ病室に、同じ椎間板ヘルニアの入院患者が2人いた。それに加えて私の3人は、同じ苦労を乗り越えた仲間ということで、よく話をする仲になった。

 そんなある日、この3バカトリオは満を持して計画を実行した。

 「脱走」だ。

 全員術後の経過もよく、順調ではあるが暇なリハビリ生活をもてあましていた。そこで、夜病室を抜け出して、シャバの空気を吸おうと思い立ったのだ。

 午後7時半。そろりそろりと病室を抜け出し、病院の非常口をでて、道路に降り立った。

 ・・・嗚呼、3週間ぶりの病院外の空気だ! 3人3様に感動をかみ締めながら、計画の目的地であるコンビニへと向かった。

 別に何がしたかったわけでもないので、病院を出た時点で目的は達成されている。コンビニでなんとなくお菓子を買ったり、立ち読みしたりして、ひとしきり病院外ライフを堪能した我々は、さっさと病院に帰った。

 特に計画がばれた様子もなく、すんなりと各自のベッドに帰り着き、脱走作戦は成功裏に終わった。終わってみればなんて事のない計画だったけど、その日の夜は、暗闇の中でにんまりとしながら眠りについた。たぶん、他の2人もそうだったと思う。

ヘルニア闘病記: 11.入院11~19日目/手術6~14日後

 歩けるようになった次の日から、リハビリ生活が始まった。

 リハビリの内容は大きく分けて2種類で、1つは腰まわりの筋力の強化。筋肉を天然のコルセットとすることで、手術部位の保護と再発の防止を図る。もう1つは脚まわりの柔軟で、長いこと稼動していなかった左の足や脚の関節をほぐす。

 ワタクシ、自慢ではございませんが筋トレのたぐいが大嫌い。なので、結構このリハビリ生活はつらかった。「ゆっくり途中まで上げる腹筋を5回」とかいう程度の運動量だったと思うんだけど、なまった体ではそれすらも最初は苦痛だったのを覚えている。

 でも、1日1時間程度のリハビリと、1日1時間の点滴の時間以外は基本的に何もすることがない入院生活では、リハビリの時間はやることが明確なだけ、まだしもマシだった。それ以外の時間は自由ではあるんだけど、やることもないので、とても暇な日々だった。

ヘルニア闘病記: 10.入院10日目/手術5日後

 手術部位の回復具合を確認し、問題がないと判断されたため、3度目の羞恥プレイを迎えることなく、手術後5日目にして、いよいよ自立を許された。待ちに待った瞬間だった。

 が、長らく寝たきり生活だったため、筋肉が弱ってしまい、すぐに自立することは出来ないらしい。そこで車輪つきの歩行器が用意されての、ものものしい自立となった。どうやらただ立って歩くだけでも大仕事らしい。

 しかし、自分的には少しこのものものしさに違和感を感じていた。正直、「普通に立って歩けるよ」と思っていた。

 先生に言われるがままに、ベッドの上で上半身を起こしてみる。「どう?気分悪くない?」などと聞かれるが、気分が悪いわけがない。夢にまで見た直立の世界だ。東京タワーの上からみるよりもいい眺めだった。サイコーの気分だ。

 全然余裕であることを伝えると、今度はゆっくりと床に立ってみよう、と言うことになった。まずは手術前に採寸し、私の胴の形にフィットするように作られたコルセットを装着する。そして足を床に下ろして、ベッドに腰掛ける形になる。問題ない。さっとそこへ歩行器が用意されるが、そんなものが必要とは思えなかった。

 すくっと立ち上がる。まるっきりふつうに立てた。「あれ?大丈夫?歩ける?」などといわれたので歩いてみるが、当然のように歩ける。そして・・・脚が痛くない。すばらしい。もう有頂天だ。

 調子に乗ってすたすた歩く。あわてて歩行器を引きずって看護婦が付いてくるが、そんなものは要らない。感動に水を差すな。ひとしきり歩いて、先生の下へ戻った。

 先生は少し意外そうに私をみて「普通はいきなりそんなに歩けないんだけどね」と不思議そうに言った。でもなんとなく私には、私が歩ける理由がわかる気がした。要するに、私にはもともと落ちる筋肉がさほどなかったのだ。だから普段から少ない筋肉で歩くテクニックが身についていたに違いない。多少筋肉が落ちたところで普段通りなのだ。筋力10の人が3に落ちれば大変だろうが、もともと筋力4しかなければ3になってもギャップが少ない。情けない気もするけど、たぶんそういうことだと思った。だって、ここ半年くらい10分と歩けない体だったのだから。

 そして満を持して、自力でトイレに入り、心ゆくまで排便をした。洋式トイレの個室が、帝国ホテルのスウィート・ルームのリビングに思えた。

 入院は山を越えようとしていた。

ヘルニア闘病記: 09.入院7~9日目/手術2~4日後

 動けない生活はつらい。飯は不味いし、テレビは横にしか見えないし、気がつけば「やだねったら、やだね」と箱根八里の半次郎を自嘲気味に口ずさんでいた。

 そんな動けない生活で一番つらかったのは、言うまでもなく大便だ。汚い話で恐縮だけど、看護婦さんに自分の恥ずかしいところと、そこから出てきた戦果との、両方を処理してもらわなければならない。これは極めて屈辱的な行為になる。だから椎間板ヘルニアくらいの拘束期間の場合、自力で動けるようになるまで大便を我慢し続ける人もいるようだ。

 が、私は悟りを開いていたので、なんにも気にせず(いや、したけど)、2度ほどベッドの上での排便と言う、羞恥プレイを堪能することになった。

 手順はこうだ。

 まず排便したい旨を伝える。するとチリトリ状の容器が寝ている私の尻の下に挿入される。このとき掛け布団はかけたままだ。そしてその状態で排便する。行為が終わったら、その旨を伝えると、容器ごと便が持ち去られる。看護婦さんが尻を拭いてくれる。病室にはしばらく大便の香りが充満する。

 うわああああああ。思い出すだけで恥ずかしいわ!

ヘルニア闘病記: 08.入院6日目/手術1日後

 昨日は昼過ぎに病室に戻ったらしい。断片的には覚えているが、あまり覚えていない。

 母が言うには、「真っ青な顔をして帰ってきた」とのことで、やはり手術というのは患者の体力を相当に損耗させるもののようだ。

 しばらく「痛い痛い」と言っていたらしいが、全然記憶にない。痛かった記憶さえないのだから都合がいい脳みそだ。そのまま座薬の鎮痛剤を挿入されて、半ば寝たような、半ば起きたような意識のまま、気がつけば完全に寝入って翌朝を迎えた。

 しかしこの話を聞いて内心舌打ちをした。母に泣き言は聞かせないと誓ったのに、知らない間にあっさりと誓いが破られてしまった。だからこの日以降は、努めて「全然余裕」と振舞った。

 実際この段階で、もう手術部位の痛みはあまりなかった。ただやはり肌が突っ張っているような違和感があった。

 さらに見回すと、局部がおかしい。私のホースの先端から、ゴムのホースが伸びている。こ、これが噂の尿道カテーテルか。知らない間に局部をいじられていたと思うと、少し恥ずかしい気分にもなったが、この頃にはもう「どうにでもしてくれ」と腹をくくっていたので、すぐに気にならなくなった。

 カテーテルの先はベッドの下に消えていっているので、体を起こすことも出来ない自分では、その先がどうなっているのかは確認できなかった。後ほど看護婦(この頃はまだ看護師とかいう言い方はなかった気がする)に聞いたところ、単純に尿を溜める袋があるだけとのことだった。ふむ。

 こうして寝たまま微動だにできず、そのまま飯を食い、テレビを見たり本を読んだりして、ひたすら時が過ぎて回復するのを待つ生活が始まった。